東北旅行その②2009年03月21日 20時04分00秒

林風舎の看板
 写真は、花巻市大通りにある林風舎(RINPOOSHA)です。 

今日は、マンガ喫茶にガンガン(鋼の錬金術師)を読みに行ったついでに、ハチクロ⑦巻も見てきましたww

 多少脚色してそう・・・とは書いたけど、松島の景色がそのまんまな感じで読んでて嬉しい♪次松島に行くときは、ハチクロ⑦巻も持っていって見比べるべきですね。次は雨が降ってなければいいなぁ~~。多摩美もあんな感じなんだろうなぁ~~。

 帰りに郡山駅で途中下車したときに、時刻表もらってしまったのですが・・・。上野発札幌行きの寝台特急ってカシオペアと北斗星だけなんですね!北斗星は竹本くんが、岩手県の田舎道で父親の影を追って追いかけ、カシオペアは真山(←呼び捨て)が、リカさんを故郷に連れて行った・・・。両方とも作品に登場してるんですね!!すげぇすげぇ!こんなことでものすごくハイテンションになる私。ハチクロおたくなのか、電車おたくなのか自分でも分かりません・・・・(笑)


 今回は、もうひとつの私のおたくぶり(?)を発揮する宮沢賢治記念館について。宮沢賢治作品に初めて触れたのは、多分「セロ弾きのゴーシュ」家に絵本があったと思います。でも、まさか日本の作品とは思ってなくて、「ハーメルンの笛吹き」とか「ブレーメンの音楽隊」とかとおんなじようなもんだと思っていました。それが、小学校の高学年か中学校あたりに「銀河鉄道の夜」に出会い、なんていうか、「本当の幸い」を見つめる綺麗な物語にびっくりしました。

 そして、高校になったころ「春と修羅」の中の「わたくしという現象は(略)有機交流電燈のひとつの青い照明です」という言葉や「おれはひとりの修羅なのだ」という言葉にすっかり惹きつけられ、宮沢賢治という人っていったいなんなのだろう??どうして、こんな清い魂をもった人が修羅なのだろう???ってず~~~っと疑問だったのですね。夏になるたびに「銀河鉄道の夜」を読み返しては、なんとなくせつない気持ちに浸っていました。

 それが、いつだったか、「宮沢賢治記念館」というところには、賢治さんのチェロがある!というのを知って、長年しつこくしつこく行きたい行きたい!と思っていました。

 記念館は最初は、あ、意外と狭いと思ったのですが、あまりにも充実していて、かなり長いこといました。資料の多くは花巻の空襲で失われてしまったそうだったのですが、それでも、直筆の手紙や原稿が沢山残っていて・・・・。

 一番心に残ったのが、「銀河鉄道の夜」第4稿の最終ページでした。まだまだアイデア段階というか、ほとんどメモ書きみたいな感じで。まだまだ考える時間があったら、カンパネルラのお父さんが、ジョバンニにかける言葉も全然変わったものになっていたのかも知れませんね。それ以外の原稿も、本当に読めないくらい手直しを入れ続けていて。真実にどうやって近づけるのか、言葉を探し探ししつづけていたのが、本当に伝わってきます。「ほんとうの幸い」を求めるそこまでの情熱が、童話を書き、宗教活動し、農業やいろんな研究をする原動力なんだなぁ、魂の純粋な、でも、本当に修羅を生きた人なんだなぁと思いました。

 そんな事を思いながら、見ていると、解説員の方が、グループで来てる方に「雨ニモ負ケズ」の詩(詩というか手帳への書きつけだったのですが・・・)の解説をしていました。

 「"あらゆることを自分の勘定にいれずに・よく見聞きし分かり"、こういう事が、生きている人間には出来るわけがないんです。これは、菩薩の世界です。宮沢賢治は、もうこの時点では自分が長くない事をしっているので、"そういうものに私はなりたい"・・・っていうのは、死後、そういう存在になりたいっていう願望なんですね」

 解説された人はへぇぇ~~なるほどね~~と納得されてらっしゃいましたが、私は心の中で「待てよ」と思ったのです。死んで仏さんになって世の中を見守ってる人が、粗食とはいえ、1日玄米4合も食べるか??やっぱり賢治さんは、生きたまま、菩薩になりたかったんだと思うんですよねぇぇ。

 教師の職を「中ぶらりんの教師など生温いことをしているわけにはいかない」といい、病が一度癒えて就職した東北砕石工場の技師の仕事も「わがおちぶれ」といい苦悩した賢治。・・・そんなこと言われちゃ私の仕事なんてどうなのさっ?!て思っちゃうけど、そういうストイックさがこの芸術を生み出したというか。

 羅須地人協会の活動も、ざっとしかまだ見てないけど、労働と芸術は同じとか、いろんな事を考えてるメモ書きがものすごくシュタイナーちっくだと思いました。(だいぶん前にシュタイナーのノート展を見に行ったことがあるのです。もちろんドイツ語読めなかったけど・・・)童話で描いたこと以上にいろんないろんな事を考え抜いた人だと改めて思いました。30を超えて高等数学を勉強して、法華経の教えを数学的に解明しようとした・・・なんて事も書いてましたよ?!すごすぎる。

 数学の事は分からないけど、記念館に行って、私はますます賢治さんの事が知りたくなりました。告白されても困ると思うけど、好きなんです。(^_^;)


 宿泊したユースホステルで、車で温泉につれていってもらう時、偶然?JR釜石線の列車が走りました。闇の中、窓ガラスの灯りの連なりが、高架を走っていくその様子は、まさしく銀河鉄道に見えました。

 賢治さんのイーハトーブはやっぱり素敵な所でした。日本に生まれて良かった。日本に宮沢賢治さんがいてくれて良かったと思いました。

 ところで、意外な発見!世界経済は、去年のリーマンショックから、一気にとんでもな事になってる訳ですが、1929年、世界大恐慌の年、宮沢賢治さんは年表によると33歳です。今の私と同い年じゃん~~(^^ゞ

 この恐慌の時は、ありとあらゆることがどんどん破綻していって10年後に第2次世界大戦が始まってしまうのですが、そして、賢治さんはその世界を見ずに(彼ほどの感性の強い人は見ずにいれたことは良かったことかもしれないと思います)逝ってしまったのですが・・・。

 さて、今。第3次大戦なんて絶対いやだからね!微力でもどんなに微かでも世界が良くなるように祈りながら生き抜いてやりたいと思います。

 そして、その為には、仙台で安珠さんのセミナーで学んだような事をこつこつと小さくても積み上げることが遠まわしに見えても、自分の出来る一番重要なこと。と思いました。私の中で全てが繋がった感のある充実した東北旅行でした。


 
 帰りには名古屋に寄りまして。頭と体をフル回転させてきた旅行疲れがすっかり癒されました。
 柴田先生、ありがとうございました!!
 http://nto.at.webry.info/

コメント

_ 名古屋セラピストオフィス柴田俊生 ― 2009年03月23日 11時15分31秒

東北旅行記を楽しく拝見いたしました。
私のブログの宣伝もしていただきありがとうございます。

「名古屋めし・ひつまぶし」のご感想もお書きいただけると嬉しいです。

_ 朔 ― 2009年03月23日 23時32分35秒

柴田先生ありがとうございます。公式のブログだからいいかな~と貼り付けてしまいまして。m(__)m

ところで、これを書いたときは、宮沢賢治のことで頭が一杯でひつまぶしのこと忘れてましたっ(汗)
・・・っていうか、当日、写真を撮ってなかったです。あうあう(泣)
写真なしですっごく残念ですが、名古屋のお食事日記も書かせていただきました。本当に忘れるとこでした。スミマセン。

その節は本当にお世話になりました。ご馳走様でした(*^_^*)

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